親と子のB−Pクイズ(解答と解説)
2002/07/17 更新
知っているようで知らないB−Pのこと、下線部が答えです。 |
(1) 答え 145才 B−Pは1857年2月22日、ロンドンで生まれた。 2002−1857=145 つまり、今年はB−Pの生誕145年目にあたる。1941年、彼はケニアで死去したが、 その精神は今日、世界中に生き続けている。 |
(2) 答え 8番目 B−Pの母親は10人の子供を産んだ。B−Pはその8番目の子にあたる。すぐ上の3 人は幼くして亡くなった。また、父親の先妻の子4人のうち2人も同じ環境で育てられた。 |
(3) B−Pは音楽や演劇が得意だった。ユーモアにあふれ、楽器を上手にあやつり、他の 人々を魅了した。また、絵を描くのが得意で、生涯にわたって、多くのスケッチを残した。 (スポーツや罪もないいたずらも得意でよくやった。) |
(4) 答え A 「なんと汚い洗い方!」などと言ってはいけない。その気になれば何でもできる、という ことだ。 |
(5) 答え B B−Pは、1889〜1902年に起きた南ア戦争(またはボーア戦争)に、ローデシア前 線軍司令長官として赴任。マフェキングの戦いでイギリスの英雄となった。 |
(6) 答え C ブラウンシー島は、イギリス南部、ドーセット州プール湾の中にある小さな島。B−Pは 知人が所有していたこの島の一画を借りて、スカウト式の実験キャンプを行った。 20名の少年が参加した。@〜Bが基本ということだ。 |
(7) 答え A B−Pはこのことを日記に記している。4月2日桜が満開の横浜港へ。B−Pは、日本 滞在中に何10枚というユーモア溢れる水彩画を描いている。 |
(8) 答え オレーブ=セント=クレア=ソームズ その時、彼女は23才。誕生日はB−Pと同じ2月22日。B−Pを助けて、ボーイスカ ウト運動の充実に貢献した。後にガールスカウト運動に加わり、総長になった。 |
(9) B−Pが著した主な本は以下の通り 「斥候の手引」(1895年)、「スカウトティング・フォア・ボーイズ」(1908年)、 「ローバリング・ツウ・サクセス」(1922年)、など。 |
(10) 誕生したときの名前は、ロバート=スティブンスン=スミス=パウエル。 後に、パウエルをベーデン−パウエルに変更した。1920年第1回世界ジャンボリーで 「世界の総長」となる。1929年、男爵ベーデン−パウエル=オブ=ギルウェル卿となっ た。 |