ベーデン−パウエル物語

2002/07/17 更新


  

 1. 生い立ち

 2. 軍隊時代                         

 3. スカウト運動の始まり

 4. 世界の総長

    

  

 1. 生い立ち 

  ベーデン−パウエルは、その83年の生涯を国のために尽くした軍人として、また、 

 スカウト運動を通じて世界の平和のために尽くした人として有名です。

  ロバート・ステファンソン・スミス・ベーデン−パウエル(以下「B-P」という)

 は、1857年 2月22日にイギリスのロンドン、パディントン、スタンホープ街6番地

 で生まれました。オックスフォード大学のレバーエンド・ベーデン・パウエル教授

 の10人の子供の中の 8人目です。スミスは母の姓、ロバート・ステファンソンの名

 前は名付け親からもらいました。

  B-Pが 3歳の時に父が亡くなったのですが、この時が家族にとってたいへん苦し

 い時でした。B-Pは、最初に母の教育を受け、その後、タンブリッジ・ウェルにあ

 るローズ・ヒル・スクールに入学しました。ここで、チャーターハウス・スクール

 の奨学生資格を得たのです。チャーターハウス・スクールは、B-Pが入学した当初

 はロンドンにありましたが、途中からサレーのゴダルミングに移りました。ここで

 の生活が、B-Pの一生に大きな影響を与えたのです。

  B-Pは、いつも新しいことを修得することに熱心でした。ピアノやバイオリンを弾

 いたり、何度も道化師を演じたりしました。チャーターハウスにいる間に、彼は斥

 侯術と野外活動に興味を持つようになりました。

  学校の周りに森があったのですが、この森では、うさぎを狩って料理するのと同じ

 くらい上手に、先生から隠れて火をたいたのでした。また、休みの日を無為に過ごす

 こともしませんでした。兄達と一緒に、いつも冒険を楽しんでいたのです。例えば、

 休日には、イギリスの南海岸をあちこちヨットで旅したり*1、カヌーでテームズ川の

 源流までさかのぼったりしました。絵画や工作も、プロ並みに上手だったのです。

  しかし、B-Pの学校の成績は良くありませんでした。ある時など、数学は「もう勉

 強をあきらめたように見える。」と、フランス語は「だんだん怠けるようになった。

 授業中ときどき居眠りしていることもある。」と書かれたこともあります。

  それにも関わらず、1876年(19才の時)に彼は陸軍の試験を受け、数百人の受験者

 の中で 2番の成績で受かったのです。その結果、成績優秀者の特権として士官学校を

 省略して、第13軽騎兵連隊に少尉として配属され、後には、大佐にまで昇進していま

 す。

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 2. 軍隊時代

  1876年、B-Pは若き陸軍士官としてインドに行き、そこで斥侯術、地図作り、偵察

 の技術を磨いたのです。これらの技に秀でていたため、その後、兵士の育成を担当し

 ました。一人のリーダの下で、少人数の隊員が互いに協力して目的を達成するという

 B-Pの考え方は当時としては斬新なものでした。そして、習熟した証として、旧いコン 

 パスの北矢印に似た修得バッチ*2を与えたのです。

  その後、彼はバルカン半島、南アフリカ、マルタ島にも赴任しています。ボーア戦

 争の初期にアフリカに戻り、ボーア軍の包囲の中で217日もの間マフェキングを防衛

 しました。

  そして、このマフェキング防衛戦が、B-Pをスカウト活動へと導いたのでした。

 それは、マフェキングにおいて手紙を配達した少年達の勇気と工夫に満ちた様子が、

 B-Pの心に深く印象づけられたことです。また、イギリスにおいても、彼の活躍が人々

 の間に強い印象となって残ったのです。

  1903年に国に帰ると、彼は国民的な英雄になっていることを知りました。そして、

 彼が兵士のために書いた「斥候の手引き」が、国中の若い指導者や先生によって、観

 察と野営法の教科書として使われている事も知りました。

  彼は、多くの集会やラリーで講演しましたが、特にボーイズブリゲード*3の大会で

 は創始者のウィリアム・スミス卿から、「少年たちを良き市民として育成するために

 使えないだろうか」と訊ねられたのでした。

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 3. スカウト運動の始まり

  B-Pは、今度は青少年のために「斥候の手引き」を書き直すことにしました。1907

 年になると、彼はアイデアを実際に確かめるためにドーセット州プールのブラウンシ

 島で実験キャンプを行いました。彼は、私立学校の少年と労働者階級の家庭の少年、

 合わせて20名の少年たち*4と一緒に彼の指導の下でキャンプを行いました。その結果

 は、今では世界中がよく知っています。

  スカウトティング・フォア・ボーイズは、1908年に6分冊で発売され、たいへん

 な売れ行きを記録しました。少年たちは、そこに書かれたアイデアを実施するために

 スカウトの班を作りました。これが全世界の少年の心をとらえる程の運動の起動力と

 なって、イギリスばかりでなく他のいろいろな国にも拡がっていったのです。

  スカウトティング・フォア・ボーイズは35カ国語に翻訳されました。

  大きな騒ぎも特別な式典もなく、極めて自然に、国中のいたる所で少年たちによる

 スカウト隊が発足したのでした。1908年9月には、多くの問い合わせに対応するため

 に、B-Pはロンドンに事務所を構えました。

  この運動は、大英帝国ならびにその他の国々に急速に広がり、あっという間に世界

 中に行きわたったのです。しかし、後になって全体主義の国々においてはスカウト活

 動が禁止されました。(このことは、スカウト活動が基本的に民主的でボランティア

 によって運営されていることを表しています。)

  1910年、「軍人でいるよりもスカウト運動によってより国に貢献できる」という国

 王エドワード7世の助言もあって、将軍になっていた彼は53歳で陸軍を退役しました。

  その結果、彼の情熱の全てがボーイスカウト運動とガールガイド運動に注がれたの

 です。(ガールスカウト/ガールガイド運動は、1909年にクリスタルパレスで開催さ

 れた第1回スカウトラリーに参加した少女たちが、「私たちもスカウトになれますか」 

 とB-Pに訊ねたことが始まりです。)彼は、スカウト運動を発展させるためならば、

 求められれば世界中のどこにでも出かけて行きました。

  1912年に、スカウト運動に関するB-Pの活動を絶えず助け、生涯その理解者となった

 オレーブ・ソームズ嬢と結婚しました。オレーブ・レディ・ベーデン−パウエルは、

 後に世界のガールガイドの総長として知られるようになりました。

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 4. 世界の総長

  1920年、ロンドンのオリンピアで第1回世界ジャンボリーが開かれました。この

 ジャンボリーの最後、8月 7日の夜、B-Pは歓呼する少年たちによって「世界の総長」

 に推されたのです。

  それがスカウトによるものであれ指導者によるものであれ、継続して国際的な集い

 が開催されたということが、「世界の総長」という称号が単なる名誉によるものでは

 なく、皆から真に総長とみなされていたことを示しています。つまり、会場に彼が到

 着したことを知らせる叫び声、彼が手を挙げると静まり返る会場の様子などが、世界

 のどこであろうと彼に続く者達の心と想像力を捉えたことを疑いもなく証明していま

 す。

  イギリスはバーケンヘッドのアロウパークで開催された第3回世界ジャンボリーの時、 

 イギリス皇太子が「国王が貴族に叙する者がいるとすれば、B-Pがその人である」と伝

 えました。この知らせは、集まった人達に大きな喜びとともに受け取られたのです。

 B-Pは、彼が設立した指導者養成所の名称にちなんだ「ベーデン−パウエル・オブ・

 ギルウェル卿」の称号を授けられたのです。

  B-Pは、スカウト運動だけに興味を持ったのではありません。彼は、演劇を、魚釣り

 を、ポロを、そして狩猟を楽しみ、また、鉛筆と水彩によるすばらしい芸術家でもあ

 りました。さらに、彫刻やホームムービーにも興味を示しました。

  B-Pは、生涯に32冊もの本を著し、少なくとも 6つの大学から名誉称号を授けられ

 ました。くわえて、28もの海外の勲章、19のスカウト賞も授けられたのです。

  1938年、健康をそこねたB-Pは、住み慣れたアフリカに戻りました。ケニアのナイ

 リで余生を過ごしたのですが、そこでも彼の情熱を抑えることは難しく、その後も本

 とスケッチを生み続けたのです。

  1941年 1月 8日、83歳でB-Pは亡くなりました。彼は、ケニヤ山が望めるナイリに

 埋葬されたのですが、その墓標には、ボーイスカウト章、ガールスカウト章と共に

 「ロバート・ベーデン−パウエル 世界の総長」の文字が刻まれています。夫人の

 レディ・オレーブ・ベーデン−パウエルも、1977年に亡くなるまで、世界中のスカウ

 ト運動とガールガイド運動の発展のためにその生涯を捧げました。彼女もまた、ナイ

 リのB-Pの隣に埋葬されたのです。

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  *1 ヨットによる冒険: 1907年に実験キャンプを行ったブラウンシ島にも、この時に上陸してい

             たといわれています。

  *2 修得バッチ   : 旧いコンパスの北矢印に似たデザインは、今のスカウト章のユリのデザ

             インにも似ていたということです。

  *3 ボーイズブリゲード: 1883年にウィリアム・アレキサンダー・スミスが始めた少年運動。

             彼は、日曜学校に来る少年たちの不潔で規律のない姿を見て、彼らに男ら

             しいキリスト教徒の精神を少しでも体得させようと軍隊式の教練をさせま

             した。

  *4 20名の少年   : 実験キャンプに参加した少年は、資料によって20名、21名、22名といく

             つかあります。班の名簿に載っている少年が20名(20名説)、班とは別に

             B-Pの 9歳の甥が参加していました(21名説)。それと別に、記録には残っ 

             ていないが少年たちの兄が 1名参加したという資料もあります(22名説)。

              ここでは、ブラウンシ島に残る記念碑のメッセージに合わせて20名とし

             ました。

              なお、実験キャンプに参加した少年たちは正式にはスカウトではありま

             せん。それは、彼らはまだ「ちかい」をたてていなかったからです。また、

             実験キャンプが終わった後にスカウトにならなかった少年もいました。

   

  このB-P物語は、世界スカウト機構の「"B-P"-CHEIF SCOUT OF THE WORLD」を参考にしました。

          

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